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ノベライズ編 蔵出シムーン・シヴュラ 岡崎純子(脚本家・小説家/メガミ文庫「シムーン」1巻・2巻執筆)第3回第2回から続く>

主人公の2人や他のメインキャラに関しては、何かありますか?

アーエルは……最初は迷わず突き進んでいるけど、途中からいろんなことが見える余裕ができたが故に、ちょっと迷っちゃったりする。それで最終的に、先にあるところに向かっていくときは、ネヴィリルと一緒にいかれる……というキャラでしたね。

ネヴィリルは、本当はアーエルより半歩ずつ、その展開の先をいっている人のような気がしています。アムリアとの関係では彼女に引っぱられていたし、ネヴィリルもそう思ってはいたんですけど、実はネヴィリル自身が、自発的に選択して進んでいたから、アムリアを失うことになってしまったんですよね。一瞬の自分の迷いのせいで、彼女を失ってしまったために、ちょっとこう、思考停止状態というか、考え過ぎるようになってしまったのかなぁ、と。それが多分、アングラスが死んでからのアーエルと重なる気がしています。

自分の中に閉じこもっているように見えても、何となくそれなりに全体は見ていて、そこからこう歩き出すっていう感じ。それはアーエルとネヴィリルが本当に2人で支え合っているからで、片方が動く時はもう片方が止まる。今度は逆が動く、止まる。そんな感じがちょうど対照的になっていて、いいコンビだな、と。アムリアの件があった分だけ、多分、ネヴィリルが常に半歩先を行っていて、2人で階段を片足ずつ登っていき、どんどんどんどん上にいかれたんだなと思いました。1本筋を通すのがすごく難しいお話ではあったんですけど、そこを軸にしてやろうというのは最初に決めてました。だから、あの2人に関しては、感情移入をするとかしないとかではなくて、「部分的にこういう状況に陥ったらこうなるよね?」「うんうん、それはわかる」という部分を外さないようにしつつも、基本的には感情移入できない方がいいぐらいでしたね。わかり過ぎたら、近くなるじゃないですか。でもあの2人にはいつもひとつ上――みんなが見上げるところをずっといってほしいっていう――憧れの存在みたいな物であってほしかったので……。

とはいえ、ネヴィリルに関しては、アムリアを失った喪失感とか、かなり言葉で足してしまったんですけど、あまり「うんうん、わかるよ」みたいなところまでは引っぱり下ろさないようにしていました。だから、小説的には「何でこうなるかわからないな」っていうシーンが、正直いくつか残っているんですが、そこはそのまま。わからない方が(ネヴィリルが)カッコいいぐらいに思っています。

私が一番わからなかったのは……やるべき事はわかってたんで書いたんですけど、自分として感情移入しづらかったのは、カイムとアルティでしたね。姉妹でそんなぁ!  という……。妹がいる実感からすると、ちょっと想像の範囲外でした。現実として考えてしまうと、完全に思考停止になりますね。フィクションとして楽しんでは書きましたけど。この2人でどういうシーンだったら萌えるかな、みたいな。そこはもう、お楽しみをどれだけやれるかで。1巻で泣く泣くカットしたシーンがあるんですよ。リネン室みたいなところで押し倒されて、みたいな。小道具として、洗濯物とかを絡めていこうと思ってたんで。そこは、洗濯物を持って行くとか行かないとかのシーンだけに変わっちゃったんですけど、シーツまみれになってその中でうごめいている2人……みたいなシーンを自分としては頑張って書いたんですけど、そこも分量の都合でばっさりと(苦笑)。最終話でもそんな感じ(シーツがらみ)のカイムとアルティのシーンがあったので、あ、やっぱりみんな共通認識なんだなぁ、と思いましたね。

リモネは、わりと成長がきちんと描けるキャラクターだったので、面白かったですね。子どもで真っ白なんだけど、もう既に何かを組み込まれた状態になってしまっている。それで気持ちが追いつかないままに、こういう風にしなきゃいけないんだ、みたいなことを先にたたき込まれちゃって、だんだん気持ちが周りの人たちとの関わりで追いついていくと、ちょっと年上の人の支えにもなれる……みたいなところ。優等生としてしか見られない、だからそっちの方で頑張るしか自分にはないんだ、みたいな。自分で考えて自分なりに何かを感じて動くということを、やりたいとも思わないぐらいになっちゃっている。

そこら辺は、普通にドラマとして、けっこうみんな共感できるところがあるんだと。あんまりしゃべらない可愛らしい娘、というだけではなくて、ビジュアルと合わせた可愛らしさの魅力というのは、小説でも書けないことはないんですが。それはアニメにお任せしておいて、しゃべらない人の内面を描きたかった。そこら辺は、ドミヌーラとの微妙なシーンとして、アロママッサージ(あの世界にあるのかわからないけど)なんかを小説の方で足していったら、皆さん気に入ってくださったみたいで(苦笑)。西田さんが「あれの続編を2巻でもぜひ!」みたいなことを言ってくださって。それでまぁ、裸のスキンシップみたいなシーンでも入れるか!  ということで、髪を洗ったり、身体を拭いたり、といったのシーンを入れました。自分としては、最初はドミヌーラがしてあげて最後はリモネがしてあげる、っていう対になったシーンなので、ちょっと思い入れがありますね。あれももうちょっと分量があれば……。もっとこう、触れ合いたかったんですけどね(笑)。

フロエは使い勝手のいいキャラクターでした。思ったことを言ってくれる人って1人はいてほしいんですよね。それで、ブワーッて突っ走っていっちゃったりとか。恋するということに関しては、とても幼くはあったんですけど、すごく正直で、そういうことを言ってくれる子が1人いると、その対比で他のキャラクターの恋をするという気持ちとか、それを行動にする時の違いとかが、出しやすかったので。彼女を現在の私達と同じ社会の普通の女の子の基準とすると、「この世界ならではの部分はこうですよ」とか。「この娘はこんな感じですよ」というのを他の娘に振り分ける時、私としてはやりやすかったです。書いていてちょっと重いシーンになった時、物をスパスパ言う人というのは、自分としては大変助かりましたね。最初のころは、言いたいことを言っていて、みんなに嫌われているみたいなシーンがあったりしたんですけど、個人的には非常に書きやすかったんです。だから、最後に男の子になったのも、納得ができた気がしました。監督としては、違う意図が後半の流れの中であったと思うんですけど。好きな人のために戦う、みたいな決意も一番わかりやすく出ていました。だからあのシーンで、フロエが男になる事はもう決まってたのかなぁ、と。後から振り返ってしか、私は語れないんですけれども、何かそんな気がします。彼女が1人浮かないようにするという意味で、後半でヴューラが出てきてくれたのは、コンビとしてすごく描きやすかったです。みんなが後半ちょっと大人になっちゃって、恋の話とかもかなり深刻になっていたりとか、生き死にの話とかが出てきたりする中、フロエがあのままの感じだと、いくら悲しい恋の終わりがあって、ちょっと成長したといっても、やっぱり元の性格が変わらないので、あのノリで対等に話して彼女の魅力を引きだしてくれる相手役はいなかったんですよね。恋愛関係になれば、あったとは思うんですよ。でも、誰もフロエとは恋をしてくれなかった。だから、友達という立場でサッパリ物を言う人が来てくれて、遠慮なくやり取りをしてくれるっていうのは、書いていて楽しかったです。小説では、2人の軽口のシーンが出番の割に比重は高かったかな。

ヴューラ自体が、コールテンペストが解散するかどうかっていう時に、すごく大事な役割を果たしてくれた人でもあったので、何かこう、いい役回りもさせてあげたいなというのもあって。キャラクターとしてはサッパリとしていて、私もああいうタイプの男の子と付き合いたいよな、と。

モリナスは一番普通の恋愛をして、普通に女の子としての幸せの道を着々と登っていった人でしたね。好きなことを仕事にして、そこで出会った人と職場恋愛して、そのまま結婚して、その後も仕事を続けているっていう、私たちの世界と共通の幸せですよね。実は一番『幸せな女の子の憧れの人生』を送っているのがモリナスなので。監督も2巻の打ち合わせでおっしゃっていたんですけど、「モリナスは幸せになったからいいよね」って。私も「そうですね」。そんな感じで、モリナスに関しては最低限必要な描写だけになりました。もう、自分たち2人だけで幸せになっているから、いいよね、みたいな(笑)。かわいそうな人ほど、いっぱい描いてあげたいというか。やっぱりドラマとしては、悩んでいたり、苦しんでいたりするシーンの方が面白いじゃないですか。

男性になってしまったキャラクターは、男性キャラと意識して描かれたんですか?

今の私たちの知っている男性と、「シムーン」の世界の男性では精神構造が違うと思っています。だから、私たちの知っている“男として産まれて男として生きている人たち”と同じには描けないんですよ。私たちの世界にも“女の子に産まれて男になった人”はいますよね、実際に。戸籍上とか肉体上とか。そういう人たちに、ある意味近いと思うんですよ。なので、あえて男を選んだのだから、男としての格好良さというのをリアリティはなくても、そこは貫いて描きたいと。生理的な部分でゼンゼン違うと思うんですよ。「シムーン」の世界の男は、既に自分自身の経験として、女の子の身体と心を知っていますから。だから、女の子に対する態度とかが、私たちの世界の男と絶対違うと思うんですよ。

つまり、彼らは女にモテる男像を知っているわけですよ。「女の子はこういうことをしてもらったら嬉しい」「女の子はこういうことをしてもらったら絶対好きになっちゃう」ということを、全部知ってますから。

そういう意味で、男の子たちから見たら「そんな男いねぇよ!」になるかもしれないけれど、この世界観の中での「男っていうものはこうなんだ」というものを作り、これはもう、ファンタジー的な感覚で書きました。女の子向け作品の男の人――カッコいいお兄ちゃんがいっぱい出てくる作品とかの男の人、ということですね。女の子にとって理想的な男性像が描かれているので、かなりそれに近い男の格好良さで書いたつもりです。男同士の友情も、女の子からすると妄想が広がるところなので、そこはあえて本当の生の男同士の友情ではなく、そっちの方で(笑)。彼らの生まれ育ちからすると、そっちの方がリアルなんですよ。だから、男性ファンが、「シムーン」世界の男を観てどう思ったのかな?  ということが、私は逆にすごく知りたいですね。

私は個人的におっさんが好きなので、ワウフが大好きです。後半もっと書き込みたかったですね(笑)。本当に「シムーン」はキャラクター配置が上手くできているなと思います。たとえば、まだ女の子から男になり切っていない、モリナスを好きになって行動に移すことになってやっと男になるワポーリフという段階の人がいる。それより先に、ちゃんと男になっているアヌビトゥフやグラギエフがいる。

でも、彼らはそれでもまだ、本当の大人の男にはなっていないわけですよ。女の子として、ある程度の年齢までの経験は積んで、大人の女になるのではなく男になったので。彼らは、少年から経験をし直しているんですよ。ものすごい速さで。人間としての部分は、性が別れる17歳までの経験は積んでいるんですけど。その段階では、男としては0歳なわけですよ。そこからやっと男としての成長を始める。

その成長の度合いで行くと、ワポーリフなんかは、下手をすると好きな子をいじめてしまうまだ幼い面も出るんだろうな、という年齢と考えていて。アヌビトゥフやグラギエフは、男として格好良くなり始める大学生とかの20歳前後ぐらいの青年期と仮定して……つまり、女の子としての自分という物はもうなくなって、男の子としての自分という物がはっきりある。だけど、大人の男としてという生き方はまだしてなくて、まだちょっと悩んだりとかもする。まだ理想を追ってる……っていう風に、2人を書いたんですよね。さらに、ワウフまでいくと酸いも甘いもかみ分けて、男も女も大体みんな経験しましたので、みたいな感じかなと。「お前ら、まだまだそこで悩んでるんだなぁ、うんうん、青いなぁ」と温かく見守っている。いいお父さん的な役割をしているわけですよね。

そんな感じで、キャラクター配置がすごく上手くできてるんですよ。また、大人の男の人としての対比で、ネヴィリルのお父さんのハルコンフが、政治家サイドにいますよね。

あの世界の職業は、他にもあるとは思うんですけど、一応クローズアップされていたのは、聖職者と軍人と政治家でしたよね。体制を象徴する大人の人として描かれていたのは。

そういう立場でお父さんが悩んだりとか、人を動かしたりとかしている。でも、憧れられる男の大人像、として描かれてたのが、ワウフなのかなぁ、と。

大人のキャラが、ずいぶんわかっているかのように描き過ぎないように、彼を上手く使わせてもらいました。ドミヌーラのことについても、そんなセクハラ発言する親父じゃないのは知っていたんですけど(笑)。2巻でそんなことを書いてしまったのも、いろいろもう、おっちゃん(ワウフ)がドミヌーラを小娘扱いしている感じが面白いかなと思って、つい筆がノってしまいました(笑)。

第4回に続く>
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